あまの謎

「あま」には、何かが隠されている。それは、直感である。
能のルーツを探る中で、たびたび出会ってきたキーワード、「あま」。
「あま」にはいつも、謎がつきまとう。
それはまるで能を通して、解明を求める声が聞こえてくるかのようだ。

 不思議に思ったことは
ありませんか?
 「海」や「天」を、「あま」と読ませること。
 「女」も「あま」、「海士」も「あま」と読ませる。
 「雨」「甘」「尼」‥

 これら、「あま」のひびきを持つ言葉達には、
一貫するイメージがある。
 それは、美で寛容な、
全てを優しく受容し、生命を育む母性である。
 日本の漢字には、「音読み」と「訓読み」がある。前者は導入した文字の「音」を、そのまま輸入したもの。
後者はもともとあった言葉に、同じ意味の漢字を流用したもの。
 本来の「やまとことば」は、音の響きが、そのままそのものの存在を表現するものであった。
「鳥」と他者に伝える為に、さえずり、はばたいてみせるように、事物の持つイメージを、
口から発する音の響きで現したのだ。

 赤ん坊が生まれて、大きな産声を上げる。そして、口を閉じる。最初に発する言葉は、「A---M---A」。
世界の各地に、「A---M---A」の響きを含み、母や海を意味する言葉が存在する。



あまたりしほこの秘密
日出処天子は聖徳太子ではない

 聖徳太子といえば、1万円札の図柄にもなったほど、日本の国家政治の基礎となる制度を整備し、理念を定め、仏教を導入し、海外に対しては独立の気勢を示し、かずかずの業績が語り伝えられる偉人である。

 能との意味深な関りも語り伝えられる。曰く、聖徳太子の時代に大臣となったという秦河勝(はたかわかつ)。秦氏は諸芸能の祖と伝えられ、太子の為に能を作り、演じていたというのだ。 

 しかし、日本史研究の専門家の間では、「聖徳太子」が虚構であることはすでに江戸時代頃からの常識であったらしい。

その人が存在しなかった、ということではない。
 複数の人間の業績を、ひとりの聖人の伝説として祭り上げ、大和朝廷の正当化に利用するという、日本書紀によくあるパターンの一例である。
 
 そして、有名な
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きやという国書は、聖徳太子の書いたものではなかった。
この書は、実は日本書紀にも記載されていない。隋において同時代に書かれた
「隋書・イ妥国(たいこく)伝」に記され、
しかもその国書の主は、
あまたりしほこだというのだ。「隋書・イ妥国(たいこく)伝」より抜粋を下に記す。

開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思北孤
阿輩[奚隹](「鶏」と同義)弥
(あまきみ)と号す。
使を遣わして闕に詣る。…王の妻は[奚隹]弥
(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。
太子を名づけて
利歌弥多弗利(りかみたふり)と為す。
 
 倭王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。
後十日、又大礼可多毘を遣わし、二百余騎を従え、郊労せしむ。既に彼の都に至る。
其の王、清(隋の煬帝の使者、裴世清-かわにし注)と相見え、大いに悦んで曰く、
「我聞く、海西に大隋礼儀の国有り」と。
 
 倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時出でて政を聴き、跏趺して坐し、
日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。

 阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者、俗以って異と為し、因りて祷祭を行う。
 
 百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経、迥に大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭国に附庸す。 

 王の名は、
阿毎 多利思北孤尊称は、あまきみ
夜明け前に政務を執り行い、夜が明ければ弟王に委ねる。

その都は阿蘇山に近い。竹斯国(筑紫)より以東は、皆この国に附庸する。
 
 これは、九州の王だ。阿毎 多利思北孤が遣わしたのは、遣隋使だった。
一方、近畿大和朝廷の推古天皇の甥とされる厩戸皇子の業績に、
阿毎 多利思北孤の業績が
混同されて理解されるのは
日本書紀における年代詐称の手法と、おそらく
阿毎 多利思北孤の業績の挿入による。

 日本書紀において、推古朝は常に
「大唐」へ使者を送っているが、「隋」の滅亡と「唐」の立国は、
619年のことなのだ。
九州王朝と大和王朝(前身)は同時期に存在し、それぞれに独自の外交を行っていたのである。
下に、
「隋書・たい国伝」「日本書紀・推古紀」の記録を年代ごとに並べてみた。
 

隋書、倭国伝 推古紀
開皇二十年(600)「使を遣わして闕に詣る」 推古八年(600)記事無し
大業三年(607)「使を遣わして朝貢す」
(沙門数十人を帯同)○「海西の菩薩天子」
の口上○「日の出ずる処の天子」の国書
推古十五年(607)(七月)「大礼小野臣妹子を
大唐に遣わす。
鞍作福利を以って通事とす」
大業四年(608)
「上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ」
推古十六年(608)(四月)妹子帰国。
裴世清筑紫に至る。
天皇、難波吉士雄成を遣わして、裴世清等を召す。
(六月)裴、難波津に至る。(八月)裴、京に入る。
中国側の国書「皇帝、倭皇を問う」
同年(608)
「復た、使者をして清に随い来って方物を貢せしむ」
同年(608)(九月)裴、帰国。妹子を再派遣。
(学生、学問僧八人を伴う)
推古天皇の国書
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。…」
 「此の後、遂に絶つ」 推古十七年(609)妹子帰国。福利は帰らず。
大業十年(614)記事無し 推古二十二年(614)犬上君御田鍬を派遣。
推古二十三年(615)御田鍬帰国。

海士氏の謎へつづく


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